歌という財産を後世に伝えるために
- ――一連の展開の中心には「100年後の君に聴かせたい歌」というコンセプトがあるということですが、谷村さん自身は歌に対して今どんな思いをお持ちですか。
- みんなそうだと思うんですが、最初に歌を作り始めた頃は「女の子にモテたい」というのがきっかけだったんです(笑)。それから、例えば「日本で一番になりたい」とか、そういういろんな競い合う思いのなかで歌ってきたなかで、僕の場合は「昴」という歌がユーラシア大陸に出ていって、おかげで初めて訪れた国でもいろんな人が僕の歌を歌っているシーンに直面するという経験をたくさんしました。そのときに、歌は国境を越えるんだということを実感として理解できたし、さらに言えば世代も越えていくんですよね。お父さんが歌っていたのを聴いて育った世代が、その歌を「お父さんの歌」として覚えていたりするんです。そんな経験を僕はずいぶんたくさんすることができたんです。で、100年という時間について考えてみると、今から100年前と言えば明治/大正の時代です。だから、例えば夏目漱石の言葉を今僕らが感じられるように、僕らが作ってきた歌を100年後の若い人たちにちゃんと感じてもらえるようなつながり方ができたらいいなと思うんです。それに、100年前には残そうと思ってもなかなか難しかったでしょうが、僕らはいろんな技術が進歩した現代に生きているわけだから、残すための最大限の努力をしたいなと思うんです。自分の作品だけでなく、いろんないい曲がたくさんあるし。「地球劇場」というテレビ番組を始めたのも、そういう気持ちで始めたんです。
- ――その時々のピュアな思いに従って素直に行動するという点は、最初の「女の子にモテたいというのがきっかけ」というところから一貫しているとも言えますね(笑)。
- (笑)、そうですね。確かに、僕はその時々の思いに忠実にやってきました。僕は今65歳ですが、55歳のときに一度リセットしたんです。事務所もたたみファンクラブも解散して、自分の活動を白紙に戻し、60歳以降、自分の心が本当に喜べることは何だろう?ということを考え、それに向かって活動を再開したら、そのタイミングで上海の音楽大学から教授になってほしいという依頼が来ました。やったことないことだったけど、でも天命というのはそういうことだと思ったから引き受けたんですが、やってみると知らないことだらけだなと思いましたね。
- ――例えばどんなことを知らないと感じられたんですか。
- その音楽大学の学生たちは英才教育を受けているから、音楽がどういうふうに出来上がっているかということについては、みんな知ってるんです。でも、例えば「ド」はどうして「ド」というのかということは知らないわけです。音って何?という、いちばんシンプルなことを彼らは知らないし、僕も知らない。言い方を換えると、HOW TOは習っているけれど、WHYは誰も教えてくれない。それを、僕は学びたいと思ったんです。そこから僕のなかでスイッチが入って、以来7年間は本当に食べる時間、寝る時間を惜しんで、怒濤のように学び続けた時間でした。そのなかで音とは何かということについても全部、自分なりに理解できるようになって、そのことを学生たちに伝えると彼らもすごく納得してくれました。それで、そういったことのすべてを日本の学生にも伝えたいと思って、今は東京音楽大学で教えていますし、"心の学校"と銘打ってピアノ1台とともに小さな街をめぐって、音の話もしながらいっしょに歌うということを続けています。そういう流れのなかで、「100年後の君に聴かせたい歌」というコンセプトにたどり着いたわけです。