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第40回目を迎えたトークバトルが初めて浜松に進出。2005年1月8日に行われた、ジュビロ磐田監督の山本昌邦、元サッカー日本代表井原正巳、そしてスポーツジャーナリストにして野球のクラブチーム「ウエルネス魚沼」監督の青島健太の3氏によるバトルの模様を、完全掲載!!

ぴあトークバトルスポーツ快楽主義VOL.40
「どうなる?ジュビロ磐田」

前編

<ホスト>
青島健太(スポーツジャーナリスト)
'58年、新潟県生まれ。春日部高-慶応大-東芝と進み、’85年ヤクルト・スワローズに入団。同年5月の公式戦初打席でホームランを放つ。5年間のプロ生活を経て、現在はスポーツライター、キャスターとして様々なメディアを通じてスポーツの醍醐味を伝えている。昨年12月、新潟県魚沼市の社会人野球チーム「ウエルネス魚沼」の監督に就任した。

<ゲスト>
山本昌邦(ジュビロ磐田監督)
'58年、静岡県生まれ。現役時代は日大三島高-国士館大-ヤマハ発動機で活躍、日本代表としても10試合に出場した。引退後はジュビロ磐田コーチとして、また日本代表コーチを始め各世代の日本代表で指導にあたった。'04年はアテネ五輪代表監督として本大会に出場、11月にジュビロ磐田執行役員兼監督に就任し、常勝軍団再建を期す。

井原正巳 (サッカー元日本代表主将)
'67年、滋賀県生まれ。筑波大時代の'89年から日本代表DFとして活躍。'90年に日産FC(現横浜・Fマリノス)入り、DFの要として横浜マリノスを牽引した。'00年、ジュビロ磐田へ移籍。'01年からは浦和レッズでプレイし、'02年現役を引退。Jリーグ通算297試合5得点。日本代表通算123試合5得点。現在はサッカー解説者として活躍している。

青島:こんにちは。みなさん、あけましておめでとうございます。「ぴあ・トークバトル VOL.40 どうなる?ジュビロ磐田」、さっそくスタートしていきたいと思います。
会場:拍手
青島:いや、もう素晴らしい会場ですね、ここは。普段はクラシックのコンサートもここで行われますが、今日はスポーツ一色で進めていきたいと思います。最初に私事ですが、実は新潟で野球のクラブチーム、ウエルネス魚沼の監督になりまして。
会場:拍手
青島:拍手までいただいて恐縮ですけども、皆さん大変なことになりそうなんです。選手は皆、オーストラリア人なんです。アテネ五輪で日本が負けちゃった国の人たちがですね、20人ぐらい来るんですよ。しかも新潟にオーストラリア人が来るんです。魚沼という越後湯沢に近い、お米とお酒の美味しいところでやります。そのうち新潟弁を話すオーストラリア人が出てきますので。でも監督なんて立場で大丈夫なのかと思って、ちょっと貫禄つけなくちゃ、と髭を生やしているんですけれども。最近、楽天の社長の三木谷浩史さんによく間違えられるんです。
会場:笑い
青島:全然、狙いとは違うことになっているんですけれども。でも今日は山本監督にお会いできるということで、私のほうも今年からそういうチームの活動もありますので、その辺りもじっくりと伺いたいと思って、勉強するつもりで来ました。よろしくお願いします。それではゲストの方々をご紹介いたします。最初はこの方です。現在はJFAアンバサダー、そしてサッカー解説、スポーツ番組など、テレビラジオでご活躍中です。元サッカー日本代表キャプテン、そして元ジュビロ磐田ディフェンダー・井原正巳さんです。どうぞ。
会場:拍手
井原:こんにちは。あけましておめでとうございます。
青島:あっ、会場に井原さんのフラッグが! 身内の方じゃないですよね。さすが、井原さん。
井原:僕は2000年にワンシーズン、ジュビロ磐田でやらせていただいて。
青島:ここは浜松ですけれども、こちらの方は久しぶりですか?
井原:久しぶりですね。ジュビロに移ったときは、この近くに住んでいました。
青島:そうなんですか。私なんかは、やっぱり浜松というと「うなぎパイ」を思い出してしまうんですけれど、井原さんはここに来ると何を思い出しますか?
井原:僕は八百徳を思い出しますけれども。八百徳という鰻屋さんがあって、そこでよく食事をしていて。
青島:お正月はいかがでしたか?
井原:そうですね、天皇杯などがあったので。ジュビロは残念でしたが。
青島:今日は私とツートップということで、山本監督に迫りますので、よろしくお願いします。
井原:よろしくお願いします。
青島:それでは、本日のメインゲストをお呼びいたします。日本サッカー協会への出向を終えられまして、地元、磐田へ戻ってまいりました。2004年11月から指揮をとられておられます、ジュビロ磐田エグゼクティブオフィサー兼監督、山本昌邦監督です
会場:拍手
青島:今日は、たくさんのサポーターの皆さんが集まってくれましたけれども、こういうふうに皆さんの前で話をするのはいかがですか?
山本:地元なので、非常に楽しみにしています。
青島:それではここからは来シーズンのジュビロ磐田について、お話を伺っていきたいのですが、まず「10の質問」を設けさせていただきました。
山本:はい。
青島:山本監督にお答えいただきたいと思っております。「Yes 」「No」もしくは「はい」「いいえ」という形で答えていただきたいのですが、よろしいですか?
山本:はい。
青島:それでは参ります。Q1 「ジュビロの監督を務めるのが‘夢’だった」?
山本:…はい。
青島:「No」とは言いづらいよ。
井原:ちょっと間合いがありましたね。
青島:Q.2 「監督就任要請を受け、迷いはなかった」?
山本:いいえ。
青島:Q3「日本代表、オリンピック代表での監督経験を、ジュビロ磐田でも活かすことができる」?
山本:はい、もちろん。
青島:Q4「就任後の成績には不満がある」?
山本:いいえ。
青島:でも一瞬、今かみましたね。Q5「是が非でも獲得したい選手が今いる」?
山本:いいえ。
青島:Q6、「サポーター・地元社会へのリクエストがある」?
山本:はい。
青島:Q7 、「2005年、ジュビロ磐田の先発メンバーは、大きく変わる」?
山本:えー、わかりませんね、これは。
青島:あはは。三角?
山本:どちらとも言えると思います。
青島:Q8「2005年、ジュビロ磐田のプレースタイルは、変わる」?
山本:少しずつ…はい。
青島:Q9「2005年、Jリーグチャンピオンは、もちろんジュビロ磐田である」?
山本:もちろん。
会場:拍手
青島:最後です。「アジアチャンピオンになって世界クラブ選手権に出場する」?
山本:はい。
会場:拍手

質問山本氏
第1問 ジュビロの監督を務めるのが‘夢’だったYES
第2問 監督就任要請を受け、迷いはなかったNO
第3問 日本代表、五輪代表での監督経験を、ジュビロでも活かせるYES
第4問 就任後の成績には不満があるNO
第5問 是が非でも獲得したい選手がいるNO
第6問 サポーター・地元社会へのリクエストがあるYES
第7問 2005年、ジュビロ磐田の先発メンバーは、大きく変わるYES/NO
第8問 2005年、ジュビロ磐田のプレースタイルは、変わるYES
第9問 2005年、Jリーグチャンピオンは、ジュビロ磐田であるYES
第10問 2005年、12月の世界クラブ選手権に出場する(アジアチャンピオンになる)YES

青島:山本さんからも「う~ん」という声もありましたけれども、今の質問を順番に時間がある限り、お話を伺っていきたいと思います。でもいきなり堅い話もなんですからね。ゆっくりと話を起こしていこうかと思います。監督と井原さんは、お付き合いというか、出会いはかなり古いんですよね?
山本:もう20年、僕はユースの頃から選手としては知っていたんですけども。一番の出会いは、彼が筑波大学で中山雅史(ジュビロ磐田)と、もうホントに頑張っていたときに、ジュビロ磐田に誘ったんです。
青島:誘った!
山本:そこが、一番深い線です。
井原:大学のときに僕と中山が一緒で、ちょうど山本さんがスカウティングをされていて。で、お誘いを受けて、「どうしようかな?」と。悩みながらゴン(中山雅史)はここに来て、僕は日産自動車サッカー部(現横浜F・ マリノス)の方を選んでしまいました。すみません。
会場:笑い
青島:後に、申し訳ないという気持ちもあったんでしょう、井原さん。もしかして、山本さんが嫌だったんですか(笑)?
井原:いや、そんなことはなかったんですけれども。本当に親身にお誘いいただいて、いいチームでしたし。その時、ヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)も強かったので、やっぱり「強いところに行きたい」というのは僕もあったんで。日産とヤマハで、たまたま日産がそのときには一番強いチームだったので、日産を選んだんです。
青島:じゃあ、そのときから声をかけていられたんですね?
山本:そうですね。たくさんの選手にジュビロに集まってもらったんですけれども、来てもらえなかったのは1人か2人くらいでした。
青島:あ、そうですか。
山本:本当に。彼はその当時から日本代表でかなりキャップを積んでいましたし。マリノス、ジュビロだけでなくて、ありとあらゆるクラブの人が彼の動きを気にしていましたし。まあ、奥さんが横浜の人ですし、ちょっと勝ち目は無かったですね。
青島:その辺までリサーチ入っていたんですか? 
山本:いや、本人を攻めるより、やっぱり周りから攻めないと、なかなか厳しいものがあるんで。
青島:さすがですね。
山本:スカウトでは、高校生ぐらいになると、お父さんとお母さんのどちらが主導権を握っているのかということも、すごく大事で。お父さんの方を熱心に説得していたら、最後にお母さんが「やっぱりやめなさい」ということも……。
会場:笑い
山本:そうなると私も困るわけで、その辺りまでしっかりとリサーチしないと、なかなか選手が集まらないですから。
青島:いきなり内部的な話が出てきましたね。誰が決定権を持っているかという。
山本:それは先生だったり、いろんなケースがありますが。
青島:なるほど。
山本:こちらの、ジュビロのすごいところを伝えるよりも、先方が何を考えているのかを見抜くのも大事だと思いますね、はい。
青島:で、井原さんの彼女を見つけて接触したと?
山本:それはどうかな?
井原:でもジュビロは本当に毎年、いい選手が入団してくるなという印象があります。
青島:そうですよね。
井原:それだけチームとしてのビジョンもしっかりしていると思いますし、人気もあると思いますし。
青島:皆さん、チームに入ってから長いですものね。本当に力をどんどん付けていっているという形で。
山本:それは、やはりクラブのサポートする態勢というのは、ものすごくうれしい環境があって、街の雰囲気だとか。浜松に住んでいる選手が多いんですけどね、磐田の町にもいますし、全体の雰囲気というのが、選手にとってすごく生活しやすいんですよね。
青島:実は私、山本さんと歳が同じですよね。
山本:そうですね、同期ですよね。
青島:しかも、昭和33年の山本さんは4月4日生まれで、私は4 月7日生まれなんです。3日しか違わないんですね。
山本:あっ、そうなんですか。
青島:そうなんです。3日先輩なんですよね。
山本:はい。
青島:そんな話、どうでもよかったですかね?
会場:笑い
青島:さて先ほどの質問に入っていきたいと思います。まず第1 問、「ジュビロの監督を務めるのが‘夢’だった」。山本監督はもちろん「YES 」と答えられましたけれども、日本リーグの時代は“入社”という言い方で。
山本:そうですね。
青島:1981年にヤマハ発動機に入社ですよね? 当時はどんなスタイルというか、選手としての勤務はどんな感じだったんですか?
山本:午前中にヤマハ発動機に行って働いて。午後1時か3時くらいから練習という感じの生活スタイルで。それはすごく恵まれていた方だと思うんです。練習グラウンドとか、すごくしっかりしていましたし。監督が杉山(隆一、元日本代表)さんで。
青島:はい。
山本:1968年メキシコ五輪銅メダルの。もう、憧れの人でしたからね。
青島:井原さんが入ったときは?
井原:僕は1990年の入社で、一応、日産自動車の非常勤嘱託社員でした。
青島:まだJリーグが始まる前ですから。
井原:前ですね。仕事の方は一度も行かなかったんですけれども、サッカーをやっていればいいという形で。一応、所属は本社の人事部厚生課というところでした。
青島:山本さんもヤマハ発動機に入社されたときから、その頃はまだジュビロのジュの字もない時代だったんですが、将来は指導者ということを考えていらしたんですか?
山本:当時はそうでもないですけど、指導者の勉強を始めたのは早かったですね。25歳くらいのときから。サッカーの場合、ライセンスがすごく厳しいじゃないですか。一番末端の県単位のライセンスの講習会があったりして、自分が現役やっているときに、すごく勉強になるかと思ってチャレンジして、自然と入っていった感じですね。
青島:金田喜稔(サッカー解説者、元日産自動車サッカー部)さんが、仕事に行ったときに、「おう健太ぁ、わしはのぉー、電話の受け答えも出来んでのぉー。かしこまりましたでつかまつりましたでござる」ってワケのわからない電話の受け答えをしていて、もうそりゃ、会社仕事、大変だったのぉー」って言ってましたから。
井原:日産の先輩です。総務部かなんかだったんですよね。「会社にいてもわしゃ、新聞しか読んどらん」とか言いながら…
青島:山本さん、当時の仕事はどんな?
山本:私は購買部に所属していて、2004年12月まで社長をされていた長谷川至(ヤマハ発動機代表取締役会長)さんが、当時は私の部長でいろいろかわいがっていただきました。午前中に仕事をやって、午後に練習やって、その後また会社に行って、メーカーさんから部品を買う仕事をしていていました。メーカーさんに1億ぐらいの支払いをしてましたね。多分、僕は仕事がよく出来ていないんで、社長さんが「このくらいの値段で」とちゃんとやってくれていたから、上司に怒られなかったんでしょうね。皆に助けられて。
青島:これは私の個人的な意見ですけれども、サッカー界でスーツが似合うのは、山本さんか僕か井原さんかで。このままビジネスマンをやっていても、全然OKかもと思うんですけれども。似合いますよね。
山本:ありがとうございます。
井原:スタジアムでは必ずスーツですもんね。どこのスーツを山本さんが着ているのかチェックしたいですよね。
山本:あはは。
青島:あの姿にクラッとくる人も多いと思いますよ。女性の方で。
井原:ジャージの監督もいらっしゃいますし。岡田(武史、横浜F ・マリノス監督)さんはジャージじゃないですか。岡田さんはジャージの方が似合いますけど。
会場:笑い
青島:確かに。やっぱり岡田さんはジャージ。怒られちゃうかな? そうですか、では早くから指導者という道も少し頭にあった。
山本:そうですね。
青島:そして第2問目は「監督就任要請を受け、迷いはなかった」という質問で、「う~ん」と間を置いてから「いいえ」という答えでした。
山本:自分が支えてもらっている、周りの優秀な方々がたくさんいらっしゃるわけですが、その皆さんに「本当に難しい時期だぞ」と言われて。でもやっぱりチームが必要としてくれて、難しいときだからこそ達成度というか、それを乗り越えたときに成果が大きくなるわけですから。それに自分の出身クラブですし、クラブが困っているときこそ、やっぱり支えていきたいなという気持ちがありました。それともうひとつは、世界クラブ選手権につながるAFC チャンピオンズリーグ2005にジュビロが出場することになっていまして。今ジュビロにいるベテラン勢が、2001年世界クラブ選手権に出場する予定になっていたのが、諸事情で大会が中止になりましたね。彼らもレアル・マドリード(スペイン)と試合できるチャンスがあったわけですけれども、それを他の事情で逃してしまった。これが3年後に今のメンバーで、世界クラブ選手権にチャレンジし続けられるかといったら、それは厳しいと思いますし。そんなにないチャンスだと思っていますので、やはり彼らになんとしても日本で最初に世界の舞台に立たせてあげたい。どのぐらいジュビロができるのかということを、彼ら自身が築いてきたジュビロですから、彼らにこういうチャンスを掴んでもらいたいという思いはすごくあります。
青島:井原さんは、山本さんがジュビロ監督就任というニュースを聞いて、どう思われました?
井原:僕は、ジュビロの監督になられるのだろうという予想はあったんです。だけれども……。
青島:時機の問題ですよね。
井原:はい。いくつかのオファーがあって、まだ迷われている、といった情報が新聞などに載ったりしていたんで、その迷う要素はどういう内容なのかなと。やっぱり監督として実際に現場に立つには、いろんな要素が必要になってくるし、そこで納得がいくものがないと、たとえ愛着のあるチームでも出来ないのかなと、すごく僕は思いましたけれども。でも実際、何チームくらいから話があったんですか?
山本:まあいくつか、ありましたけれども。
青島:それは1から3の間ですか? 3から5 ですか?
山本:そうですね。
井原:なんか、野球の方で話題のオーナーがいらっしゃるチームに行くのではないか、という話もありましたし。
青島:はい。
井原:その辺りで、何が一番の決め手になったんですか。もちろん、ずっとヤマハからジュビロへと一緒にチームとしてやってこられて、だからこそという部分もあると思うんですけれども。それ以外にどんな要素が必要になってくるのかなというところを聞きたいと思うんですけれども。
山本:今、井原さんが言われたように、本当にいろんな要素がありますね。すごく難しい仕事だと思いますし。ただ、いろいろな方のお話はしっかり聞くべきだと思って、いろんなお話は聞きました。その中で自然の流れというか自然の空気というか……。自分の行く道というのは、自然に身を任せていくと、そっちの方向へ流れていくのかなというか。やはり周りの熱意や、そうした流れは、最後は一番の決め手になりましたし。皆に「難しい仕事だ」と言われて、「じゃあ、やってやろうじゃないか」という気持ちもすごくありました。
青島:でも正直言って、昨年、2004年はアテネオリンピックもあったし、もうちょっと休みたかったんじゃないかなという気がするんですけど。どう、井原さん?
井原:僕もそう思っていました。そして、そのうち「NHK解説者かな」と。「僕の仕事も減るのかな」って思ったんですけれども。
会場:笑い
青島:そのへんの疲れというのも変ですけれど、リフレッシュをする期間というのは?
山本:正直なことを言うと、やはり年内はしっかり休んで、来季、選手もスタッフもしっかり揃えたところでスタートしたいという気持ちはありました。本当はオリンピックが終わった後は、眠れない日も続いていましたし。やはり、いろんな悔いがあるじゃないですか。この時にこうしていたらどうなったのかとか、そういう思いがすごくありまして。本当に疲れているなと初めて感じました。だから年内にしっかり充電して、皆の話をしっかり聞いて、新しいシーズンからいいスタートを切りたいと思っていたんですけれども、やっぱりジュビロの社長さんをはじめとして、スタッフの方々にすごく熱烈なアプローチをしていただいて、そこに落ち着く訳ですけれども。今思うと、早く始めたことで、いろんなことのスタートが早く切れましたし、チームの中の状況もすごく安定してきたというか。これを逆に活かしていきたいと思っています。
青島:今回は「エグゼクティブオフィサー」、漢字ですと「執行役員監督」という言い方がついていましたけれども、山本さんのお立場、仕事的にはどういう部分を兼ねるんですか?
山本:監督業がメインなんですけれども、ピッチの中での仕事のほかに、いいチームを作るためのピッチの外での仕事で、例えば遠征で予算がかかるところがあったりとか、環境を整えたり。やはりジュビロが世界を目指す以上、本当に日本でトップのスタッフを集めなくてはいけませんし。トレーニングだけをしていればいいわけではなくて、トレーニングと栄養と休養のサイクルが無駄なく回っていかないと、どうしても本当のトップにはなれない。そういう意味で、いろんなものが必要になりますので、直接、役員会なりでチームを強くするために必要なものを訴えていける場を提供していただける、ということなんです。直接訴えてダメなこともありますけれども、訴えるものをしっかりと伝えないと、会社に理解もしてもらえないと思いますので、必要なものは本当によく訴えて。それはもうジュビロが日本で一番であり、世界レベルのチームになるために、必要なものをしっかりやるために。ただ、優秀なスタッフがたくさんいるので、その皆さんのご意見をしっかり聞きながら、やはりその中で邁進していけばいいんだろうなと思います。
青島:井原さんもいくつかのチームでプレーされて、そして今は取材する立場でいろんなチームを見ていると思うんですけれども、山本さんのようなゼネラルマネージャー的なポジションを置かれるということはどうですか?
井原:監督業というのはグラウンドの上だけで指揮をとっていればいいのではなくて、やっぱりオフのとき、グラウンドを離れたところでも役割があると思うし、やはり、そういう部分での仕事をしっかりやっていける監督が、これから望まれていくのかなという感じはします。だから、本当にいろんなことを勉強しながら、いろんなものを知っておいて、監督というものを実際にやっていかないと。今回山本さんがその立場でやられるというのは、これから監督になろうとしている者たちにとって、すごくいい参考になると思います。大変だと思いますけどね。
青島:井原さん、もうそろそろ監督とかどう?
井原:えっ?
青島:言うまでもないですね。
井原:目指してはいるんですけれど。まだライセンスがこれからなんで。S級というライセンスがないと、Jリーグの監督はできないので、今年か来年にはS級ライセンスを受講したいなと思うんですけれど。
山本:そこが難しいところで、日本で一番代表のキャップ数をもっている井原さんであっても、そのライセンスをしっかり勉強しなくてはならない。S級ライセンスってすごく難しいライセンスで、大学院に入って、秋はもうずっと大学院の講義。あとはサッカー協会の実務を繰り返しながら3カ月間やって、年末には筆記試験がある。すごく難しいライセンスなんですよ。費用もすごくかかるし。その費用も自分で捻出していかないといけない。自分のライセンスですから。井原さんは「経験がある」という点ではもう半歩リードしているんですけれど、これから日本サッカー協会の実務もしつつ、ぜひ羽ばたいてほしいなと。我々の時代というのはアマチュアでやってきた時代で、選手の時代に苦労がなかった。それに比べると、プロで実際、世界で戦ってきた経験もありますし。そういう選手がプロの監督として指導できるようになったら、日本のサッカー界も飛躍的によくなると思うんです。ただ簡単に、そういう人材が育ってきたから、我々が「はい、明け渡しますよ」では、彼らも成長しないと思うんです。
青島:はい。
山本:だから今、目一杯、頑張って、「簡単に追い抜かせないよ」ということを示さないと。いずれ追い越してもらって、いずれ彼らの手で日本がワールドカップでトロフィーを手にするときが来ると思うんですよ。
青島:なるほど。
山本:この10年の目標が、世界のトップ10ということで対応しているわけですけれども、そういう時代が早くきてもらいたいです。すごく期待してます。
青島:昨日、たまたま別の機会に都並(敏史、ヴェルディ・ユース監督)さんと話をして、93年のドーハ(ワールドカップ・アメリカ大会予選)のメンバーで監督になられたのが、柱谷(哲二、浦和レッズコーチ、元コンサドーレ札幌監督)さん、長谷川健太(清水エスパルス監督)さん。で、あの時のメンバーでまだ現役で残っているのが、カズ(三浦知良、ヴィッセル神戸)とゴンちゃんなんていう話があって。井原さんも含めて、あの時のメンバーってほとんど今はコーチや監督を目指していますね。
井原:そうですね。
青島:そんな井原さんにとっても、山本さんみたいなあり方が、将来進む理想型になっているんですかね。
井原:やっぱりそういうノウハウや知識がないと、いい監督にはなれないのかなっていう気がします。
青島:さて3つ目は「日本代表、五輪代表での監督経験を、ジュビロでも活かせるか」、これは迷うことなく「はい」と山本さん、お答えをされたわけですけれども。これは当然だと思いますけれども、まずはアテネオリンピックなんですけれども、井原さんは2004年アテネオリンピックはどんなふうにご覧になりました?
井原:そうですね。やっぱり試合は、3戦とも接戦だったと思うんですが、初戦(2004年8 月12日、ギリシャ・テッサロニキ、パラグアイ4-3 日本)が。
青島:怖いですよね。そこでもう一気に、全体の流れが変わってくるわけで。
井原:その辺りで、やっぱり最後まで波に乗り切れないまま2戦(2004年8 月15日、ギリシア・ボロス、イタリア3-2 日本)が終わってしまったんじゃないかとも思いますけれども、3戦目(2004年8 月18日、ギリシャ・ボロス、ガーナ0-1 日本)には勝ってよかったですけどね。
青島:そうですよね。あそこでヘコまないで、よく盛り返したなと思いましたけどね。
井原:3戦目で、相手は決勝トーナメント進出がかかっていたわけで、日本に対しては勝ちにかかってきたわけですから。日本の選手はモチベーションがどうなるのかなと心配はしたんですけれど、そこでしっかり結果を出したというのは、次につながる戦いをしてくれたんじゃないかなと思います。
青島:そうですね。
井原:僕だって1998年のワールドカップの時には、3戦目は消化試合だったんです。アルゼンチン(1998年6 月14日、フランス・トゥールーズ、アルゼンチン1-0 日本)とクロアチア(1998年6 月20日、フランス・ナント、クロアチア1-0 日本)に負けて、3戦目(1998年6 月26日、フランス・リヨン)でもジャマイカという格下のやはり決勝トーナメントに行けないチームで、2 チームとも消化試合なのに、そこのチームに2-1で負けてしまった。やっぱりそういう戦いだと次に残らないという悔しさがありましたから。それを、相手はまだ上に行く可能性があるチームに対して、しっかり勝ったというのは大きな自信になったとは思います。
青島:私も現地に1 カ月もいていろんなものを見せてもらいましたけれども、サッカーに限らず、スポーツのもっている怖さというか、そういうものをまざまざと見せられたという思いはしたんですけれど。山本監督はアテネをどんなふうに総括されて、次につなげようと思っていますか。
山本:本当に怖いなと思っていますけれど。アテネ経由でドイツ(2006年ワールドカップ・ドイツ大会)につなげることもすごく大きな使命なので、これから先の2 年間、もしくは2010年のワールドカップに向けてですね、選手が成長していくことがすごく大事で。あのチームの選手の中には、初めて世界大会のピッチに立った選手も多かったんですね。やはり、ああいう世界の大舞台になると、持っている力を発揮させてくれないような厳しい場面も多い。ですから、やはり下の年代でいかに世界を経験しておくかが大事だと思いました。やはり、今の代表の中心選手、中田(英寿、イタリア・フィオレンティーナ)、小野(伸二、オランダ・フェイエノールト)と稲本(潤一、イングランド・ウエスト・ブロミッジ)の世代なんて、17歳からずっと世界大会を経験していて、20歳代で世界で準優勝したり、シドニー・オリンピックでベスト8 に進出したり、ずっと世界でベスト8以上が当たり前のような世界なんですよね。そういう経験がやっぱり本番での落ち着きにつながると思うし。そういう意味では、力を発揮できない選手もいたんですけれど、これをスタートラインとして、次のワールドカップに落ち着いて入っていってくれれば、日本全体の底上げにつながっていくのかなと思います。実際に大久保(嘉人、スペイン・マジョルカ)だとか松井(大輔、フランス・ル・マン)だとか海外に行った選手もいましたし、そういうところを楽しみにしながら、応援していきたいと思っています。
井原:紙一重でしたよね。結果的に銀メダル(パラグアイ)、銅メダル(イタリア)をとったチームと、予選リーグで同じグループに入ったのはキツかったという印象もありますけれど。そういう部分は次に絶対につながってくると思います。代表チームにまだ下からの突き上げというか、オリンピックを経験した選手がまだまだ入ってくる人数が少ないと思うんで。大久保なんかも入ってきましたけれども、そんな選手がもっともっと入ってほしいなと思いますけどね。
青島:相手はパラグアイ、イタリア、ガーナ。でも私が思ったのは、嫌な形で先制されたりしても、その後、点を取る逞しさというかね。結果的には1点追い上げきれない形でしたけれど、ガタガタっといくのかな思ったけど、かえってそこからボールを取りにいくという逞しさが見せてもらえたかなというふうに思ったんですけれどね。
山本:後半だけみると、負けていないんですよ。
青島:そこが難しいところですね。
山本:イタリア戦は、彼らはタレント揃いだったので、かなり厳しい状況になると予想はしていました。パラグアイ戦は勝ち点1 を取ることが重要だったんですけど、それが追いつききれなかったのが。前半を1 点差で折り返すのがゲームプランだったんですが、1 点のリードだったら後半に絶対に追いつける、でも2 点差になってしまったので。まあ、僕は金メダルには価値がないと思っているんです。その金メダルを目指す過程の1日1日の努力というか、選手が頑張った、これに金メダル以上の価値がある。世界の頂点を間近に見て、頑張ってきたこと、学んできたことをしっかり整理して、彼らがサッカー人生の中で成長していくことがものすごく大切だと思うので。結果だけで選手の評価が下がるようなことがあってはいけないと思うし、結果は監督の責任ですから。選手は自信をもって次につなげていってほしいと伝えたんです。最近はJリーグで当たるオリンピック世代の選手が意地を出して、いつも以上の頑張りをみせていて大変なんですけれど。
青島:スタメンに外れた人、力が入りますよね。
山本:一緒に苦労してやってきた選手たちとまた同じ舞台で戦うのは、すごく楽しいですね。彼らの成長も見れますし。そういう世界に身をおいて、自分も刺激を受けているのは、すごく自分にとってもいいことだと感じます。
青島:そして、山本さんの場合には2002年、トルシエ(フィリップ、フランス・マルセイユ監督、前日本代表監督)監督率いる日本代表、トルシエさんとともに戦ったわけですけれど。私的には山本さんがその後すぐ出された『山本昌邦備忘録』(講談社刊)という、トルシエ・ジャパンを振り返った本があるんですけれども。読まれた方も多いんじゃないですか? もうあれは数あるスポーツ関係の本の中で、3本の指に入る名書だと思うんですよ。すっごく面白いです。本当に面白い。
山本:ありがとうございます。
青島:山本さんの立場で考えること、トルシエが何を思っているかということが、いろんな観点からの話がでてくるんですけれども。
山本:あの本に関しては、将来、いろんな形でサッカー界になにかプラスになればいいなというのがあったんです。トルシエ監督はトルシエ監督で何冊かの本を、自分の視点から見たものを我々に残していってくれたんで。僕は一番伝えたかったことは、選手がすごく頑張ったということを、選手がどのくらい苦労して、そこを乗り越えて、自分達の力でワールドカップ決勝トーナメント進出を掴んだんだ、ということをどうしても伝えてあげたかったので。選手の頑張りを伝えることをコンセプトに、あの本を起こしたんですけれども。いろんな方から広がって、指導者の方から言われるのは「実際のそういう舞台で、どれだけ大変なことが起きているのかが、すごく勉強になった」という話を聞いた時には、本当に本に残してよかったなと思いましたね。
井原:山本さんはコーチとして監督と選手の間に入って、いろんな仕事をなさった期間も長かったですし。1996年アトランタオリンピックや2000年シドニーオリンピックにしても、そういう経験がすばらしい財産になられたと思いますし。それは絶対、選手にとっても大きいと思うんですよね。そういう経験をされた方の本というのは貴重ですよね。
青島:『備忘録』をまだ読んでいない方は今日、浜松駅の本屋さんで買っていただくといいと思いますよ。ほんとにいい本ですよ、面白い。舞台裏で何が起きているか。あれを読んで私が思ったのは、山本さん相当我慢することを覚えられたのでは。
山本:そうですね。トルシエ監督とはすごく仲がよくて、ああいう本を書いたので仲が悪いんだろうと言われる方も多いんですけれど、実際はすごく仲よくて、アテネでパラグアイに4 -3 でやられたじゃないですか。あの日の夜、一番最初に電話をくれたのはトルシエでしたよ。1999年ナイジェリアでのワールドユースで準優勝したときも、初戦(1999年4 月5 日、日本1-2 カメルーン)逆転負けでカメルーンにやられたんですね。で、そのことを持ち出して、「お前、あのワールドユースを思い出せ。初戦でやられても2連勝して決勝まで行ったじゃないか。これからまだ行けるから頑張れ」って電話してきてくれて、涙が出るほどうれしかったですね、監督として。カタールで代表監督しているときも遠征して試合やったり、今回もあのマルセイユ(フランス)で監督しているので、今、中田浩二(鹿島アントラーズ)が行くとか行かないっていう、その裏事情を聞いているんですけれど。
青島:はははは。
山本:「今度いつか練習試合やろうな」って。前に「俺、レアル・マドリードで監督やるから」って冗談で言っていたときも、「お前も呼んでやるから」って言われて、「俺はいいよ」って言って。
会場:笑い
山本:友達としてはすごくいい間柄。上司と部下になると……。
青島:どうなのかな。井原さんはトルシエさんとやってたでしょ?
井原:はい。僕は、監督としては素晴らしい監督だと思うんですけれども、人間的にはどうなのかなということはたくさんありました、接していて。
会場:笑い
青島:あの本を読むと、山本さんは本当にクールに、引いて抑えるようにして耐えているんだけど、でも、きてるなっていう感じ。
山本:トルシエ監督の場合は、チームの雰囲気が張り詰めていないと、今日はたるんでいると感じて、「今日はあいつをちょっと今日いじめるから」って、最初から俺、知っちゃっているわけですから。「あいつは今日はたるんでるから締める」っていうので、「ほー」って、選手がかわいそうになって「今日はお前、1日練習気合い入れていけよ」って、すごくその選手を盛り上げるわけですよ。トルシエが「あいつは今日すごく集中しているな」って、怒るチャンスがなくて、「今日は1時間で練習終わろう」っていうこともありましたね。うまく練習がいきすぎて。
青島:井原さんはターゲットにされたことはないんですか?
井原:僕はいつも、「おやじ、おやじ」って。
青島:ベテランって呼ばれてた? 
井原:「オールド」と呼ばれてました。「早く引退してコーチになれよ」と、代表に選んでおきながらずっとそういうことを言われてました。鈴木秀人(ジュビロ磐田)選手なんかは髪の毛を引っ張られてましたからね。
青島:聞くところによると、彼はモノマネがうまかったらしいね。
山本:すごいですよ。いいプレー、悪いプレーを実際にこう「お前のプレーはこうなんだ」っていうデモンストレーションをやるんですよ。見せたときにすごく似ているから、ちょっと笑っちゃうんですよ。そうなんだよなって。
青島:ははは。
山本:そのぐらいうまいですね。それだけ観察力があるんです。選手のいいところ、悪いところを見ていて、すぐに自分で真似できるというのは、その悪いところを見抜いているから真似ができると思うので、そういう鋭さというのはありますね。
青島:数限りない代表での経験をお持ちなんですけれど、このあたりをふまえて、ジュビロにどう活かしていきたいか。いかがですか?
山本:やはりジュビロの、井原さんがいた2000年もそうですし、その前の1997~98年のあたりの、本当に上昇時代だったんですけれど、やはり本当にいい選手がいて、それに続くというか、常にピッチに立った選手がちょっと気でも抜いたら、とって代わる選手がいくらでもいたという時代だと思うんですね。F ・マリノスにいった奥大介だとか清水範久だとか、井原さんもそうですし、大岩剛(鹿島アントラーズ)とか平野孝(東京ヴェルディ1969)なんかもいたんですけれども、本当にそういう厳しい競争の中で、皆が切磋琢磨してピッチに立っていた時代だと思います。人間としてもどこかで満足感があったり、自分のポジションを保証されていたりしたら、やはり99%頑張ったとしても、100%の頑張りには足りない部分があると思うので、100%やっていると言っても。
青島:はい。
山本:そういう状況になったら、逆に100%やらざるを得なくて、120 %頑張らないとその競争に打ち勝てない、ピッチに立てないということが起きてくる。そういう環境が作れたらいいなと。
青島:なるほど。
山本:まだまだベテランといわれているような選手たちも、新シーズン、身体作りからしっかりやっていけば、すごく、また輝ける選手たちが揃っているので。これはもう現役でやってる間でしかそういうチャンスがないわけで、自分のサッカー人生、悔いのないようにやってほしい思いますけれど。
青島:山本さんは会見でもおっしゃっていましたけれども、「レギュラーという言葉は好きではない。スタメンはあるけどレギュラーはない」。確かに井原さんもAマッチに出場されて、代表チームというのは各チームから選ばれた人がくるから、調子が悪ければ、すぐにとって代わられる。山本さんもおっしゃった競争原理が自然に働いているわけですけれども。
山本:その中で、やっぱり100試合以上、代表のピッチに立ち続けたというのは日本サッカー界で途方もないこと。
青島:破れないですよね。
山本:戦うにはメンタリティも強くなきゃいけないし、この記録というのは、すごい記録だと思うんですよね。
井原:ありがとうございます。
会場:笑い
井原:びっくりしちゃいました。あまりにも誉められたんで。
青島:代表Aマッチ123試合出場ですよね。
井原:はい、そうです。
山本:世界的にみてもすごい記録。
青島:私、以前お話を伺った時に「123試合も出て、なんで5得点だったんですか?」と聞いたことがあるんですけれども。
井原:でもまあディフェンスなんで、なかなか。それでもよく5点取ったなって思いますけれど。
青島:井原さん、そのとき「それでも5点はすごいんです」とおっしゃっていたんです。
山本:思い出すんだけど、えーっと、韓国戦で、アジア大会?
井原:広島アジア大会の韓国戦(1994年10月11日、広島スタジアム、日本2-3 韓国)。
山本:すごいミドルシュートを打って、それを会場で観ていたんですけど。もうびっくりしました。あれ、30メートル以上あったよね。
井原:そうですね。一応そういう記憶に残るゴールとか。去年、対イングランド戦(2004年6 月1 日、イギリス・マンチェスター、イングランド1-1 日本)で、小野伸二が1点入れましたけれど。その前に一度イングランドと戦っていて(1995年6 月3 日、イギリス・ロンドン、イングランド2-1 日本)、それが僕の最初の日本・イングランド戦なんですけれど。そういう、おいしいところでたまに点を取ることがあるんですけれど。
青島:うふふ
井原:量より質!
会場:笑い

後編へつづく

取材・構成:CREW
撮影:新関雅士